スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
Date: --.--.-- Category: スポンサー広告   

哲学

感情

 神が人間を創り出したのではない。人間が神を創り出したのだ。神はただの絵空事に過ぎない。弱い心を持つ人間が、自分が苦しくなった時、その苦しみを和らげるために、心の拠り所として、人々が神を創り出したのだ。
 人間の心が弱いのは何故か、それは感情を持ったことだと、僕は思う。
 人間なんて所詮は感情と欲の塊。感情が左右されればされるほど、人は歓喜し、嘆き、悲しみ、苦しむ事になる。自然界では一々悲しんでる暇も、喜んでいる暇も、苦しんでいる暇もない。
 弱い者はあっという間に殺される。苦しむ暇も無いほど。悲しみの感情もない、悲しんでいる間に自分が餌食になるよりも、仲間が死んで、それに敵が注意をひかれている間に逃げた方が、自分の生き延びる事の出来る確率が高くなる。
 喜ぶ暇もないだろう。喜んで気を抜いているうちに、何処からか現れた点滴に自らが殺されてしまうかもしれないからだ。だから、自然界の生物は常に周りに注意し、そして冷酷でいなければならない。仲間を見捨てる冷酷さと、苦しみを与えない冷酷さと、悲しまない冷酷さを、自然界の生物は所有している。
 人間の弱点、それは感情。感情があるから、人は弱っていくのだ。
 噂も、感情の現れの一つだ。噂になる事というのは、世の中の殆どの人々が簡単に出来る事では無い事が噂になる。
 実体験から言えば、告白だ。
 僕の場合、何時もの冗談のつもり(その日の今朝の思いつきでもあったんだけど)で、「お前が大好きだ。付き合ってくれ」なんて言ったけど、当然、応えは「NO」俺は、単にそ「好きだ」と言われた時のリアクションを見てみたかっただけだ。
 その時万が一「YES」だった時の事は考えなかった。絶対そうならないという確信があったからだ。
 僕が告白した相手は、人間関係として、俺の中では、最も中立な位置にいるように思う。男女に平等な位置にいると、僕は考える。
 適当なスキンシップのとれる相手だ。彼女だけは、他の女子と違い、気軽に接する事が出来る。
 さて、その偽りの告白をした日、学校では、その事が噂になりかけていた。
 誰かが誰かに告白するなんて、滅多にある事じゃない。当然、僕の事を変な目で見てくる輩はいた。その時僕は「死んでしまえばいいのに」と思った。自分の思いつきで、こんな風になるとは思ってもいなかった。
 冷静になって考えてみれば、僕は彼女に好意がある。だから、朝から考えていた冗談なんてのは、虫のいいいい訳なのかもしれない。
 まあ、僕の感情についてはどうでもいい。今度は噂を流す側の感情、考え、気持ちだ。
 人間というのは、珍しモノに目がないという、僕からすれば途轍もなく厄介で、途轍もなく最低で下種な生物だ。
 身近に無い事噂にして、その対象をクスクス笑う。酷い連中だ。
例えば、Aくんの告白が、僕のような容姿も頭もよくない男だとしよう。
 AくんはBさんに好意を抱いている。
 Aくんは、登校する時によくBさんに会うから、その時告白しようと決めた。これはかなり勇気のいる行為だ。告白というのは、自分の感情を相手に曝け出す行為だ、それは自分の弱さをあいてに見せつける事、危険極まりない行為といえよう。
 さて、Aくんは勇気を振り絞ってBさんに告白する。しかし、Bさんの返事は「NO」だった。だけど、Aくんは自分の気持ちを精一杯伝えたのだから、それでもいいと思った。だけど、Aくんには心配な事があった。もし、彼女が告白した事を誰かに話したらどうしようかと、そう思っていた。僕もそうだ。恐らく、僕が告白した相手も誰かに話してしまっただろう。
 まぁ、僕はそんな事で責めたりはしない。
 さて、Aくんは学校の昼休みに周りからひやかされた。「告白して振られた」という事で。そして数日が過ぎたある日、Aくんは周りのひやかしに耐えられず、手を出してしまう。
 相手は顔や体に多くの痣と傷を負った。
 相手の親は激怒し、Aくんの家へ乗り込んできた。
 さて、此処からが怒りの感情についてだ。
 上には、怒りの感情は書いていないが、というか書き忘れたが。兎に角、怒りについて語るとしようか。
 この時、相手をCくんだとしよう。
 さて、Cくんの両親は、自分の子供がフルボッコにされたのだからAくんに対してかなりの怒りを有しているしかし、筋違いではないだろうか。悪いのはAくんではなく、それを面白がってひやかしたCくんの方ではないだろうか。なら、怒りを向けられて当然なのはCくんで、Aくんではない。
 Aくんは精一杯自分の気持ちを伝え、それでいて、Aくんはふられても、多少ガッカリしても、でもそれで良かったとおもっているのだ。
 Aくんは人間の最大の弱点をあいてに曝け出すという勇気を所有している。それをひやかしているCくんにはそんな勇気はないだろう。何故なら、ひやかす人間というのは、弱いのだ。弱い者は自分が強いと思い込んでいて、本当の強い者は常に傷付けられてばかりだ。Cくんは死ぬべきだ。僕はそう思う。人の頑張りをひやかす人間はいなくなってしまえばいい。世の中には、無関心な人間と、人の頑張りを見守る事の出来る人間の2種類がいれば十分だ。しかし、そんな人間はいない。感情がある限り、人間は常に弱い。このAくんもそれまでは、今の自分と同じ様な境遇だった人間をさんざんひやかしていたのだ。彼も、また、弱くて強くなって、それでまた弱くなっていくのだ。
 怒りの感情に関係ない話だったな。というかそういう話だ。これは単に、人の頑張りを認められる人間がどれだけいるのかという事を、自分なりの観点からただ書いたモノに過ぎない。
 僕の偽りの告白は、決して許されるものではない。今や自分の気持ちさえもわからない。「冗談でやった」というのが後付けのいい訳なのか、自分は本当は彼女が好きなのか、もはやどうでもいい。振られたから、というわけではないが――告白して振られたあとだからそう言う風にしかとれないだろうけど――僕は他人を愛さない。キリストは敵を愛しなさいというが、俺は愛さない。他人は敵でしかない。本当の味方というのは誰でもなく自分一人だけしかいないものなのだ。
 人間というのは、実に悲しい生き物だとおもわないか?
 僕はそう思う、人間という生物は本当に可哀想だ。常に噂に怯えてなきゃいけない。
 まぁ、人間というより、学校が悪いのだと、思う。
 これこそ告白だが、僕は・・・・俺は、人間不信だ。信じられない。表面はどんなに仲良くても、誰ひとり信用できない。誰ひとりといっても、1人くらいは信用できる人物もいるけど、だが、周りの人間は殆ど憎悪の対象でしかない。
 どんなに笑顔を向けてこようと、どんなに優しくしていようと、俺には、それがただの差別行為にしかみえない。
 本当に誰にでも優しいなら、冷酷でいなければならない。
 死にかけている友人を助けても、苦しむ時間を長くするだけ。それならいっそ、助けないで見捨て、友人が敵の意識をひいているうちに逃げてしまえば、自分は長く生きる事が出来る。
 生物は、自分と自分の家族だけを思えばいい。
 わざわざ他人を欲する必要は、殆どないのだ。
 優しさは=冷酷でいなければならい。
 俺はここで、冷酷という名の哲学を築いていこう。
俺にとって、冷酷じゃない事は最も酷い事だ。
 人を殺す時、胸を一刺しにするのを躊躇って、急所以外を何度も刺して殺すより、急所を一刺しして、すぐ死んでもらった方が相手にとっては良いだろう。
 苦しませるより、すぐ楽にしてやる。という殺人鬼がいるとするならば、きっとその殺人鬼は優しい人間なのだろう。それに、人間に生きていく意味も権利もないのだ。
スポンサーサイト
Date: 2011.05.06 Category: 冷酷哲学  Comments (4) Trackbacks (0)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。